広報委員会

伝統の筑女Part2

暦の上では大寒とはいえ、冬晴れの穏やかな日々が続いております。

今回ご紹介する「伝統の筑女Part2」は、筑紫女学園の創設につながる『崇信教校』の扁額『初代校長・水月哲英先生のゆかりの品々』『旧校舎正門の柱』そして『制服』の変遷についてです。

 

『崇信教校』の扁額

今から142年前の明治11年11月、福岡県早良郡庄村(現在の早良区)に崇信教校(浄土真宗本願寺派が国の制度を手本に、僧侶子弟の教育にあたるために全国に設立した学校)が開業した際に、西本願寺明如法主より贈られた直筆の扁額(横に長い額)です。

『崇信教校』の扁額にある『崇信』の名称は、親鸞聖人の著書「教行信証」総序の「唯崇斯信(ただこの信を崇めよ)」という一文によったものです。

この歴史ある扁額は、講堂の右上部に掲げてあります。講堂に来られた際は、少し視線を上に向けてみませんか。

 


 

『初代校長 水月哲英先生』のゆかりの品々


①「初代校長 水月哲英先生の肖像画」


※紫苑館3階のメモリアルホールに保管されています。

後に筑紫女学園初代校長となられる水月哲英先生は、明治33年、浄土真宗本願寺派北米開教の責任者であるサンフランシスコ仏教青年会の会長として渡米します。20世紀初頭のアメリカで、哲英先生が驚かれたのが、アメリカ女性の社会的地位の高さでした。この経験を通して、女子の教育環境を整えることに自らの使命を感じるようになり、後に、生涯を日本の女子教育に捧げることを決意されます。

帰国後、哲英先生は西本願寺と福岡の西本願寺僧侶に熱心に女子教育の必要性を訴え、「第四佛教中学福岡分教場」(開校から5年後に廃止)の施設を利用して、明治40年(1907年)4月11日、水月哲英先生を創設者とし、「筑紫女学校」開校します。そして、わずか1ヶ月後の明治40年5月13日「私立筑紫高等女学校」に改組されました。

 

②「水月哲英先生の車椅子、松葉杖」


※紫苑館3階のメモリアルホールに大切に保管されています。

哲英先生は、渡米先のサンフランシスコで「開教使」として多忙な毎日を送る中、34歳の時、階段を踏み外して転落する事故が起きてしまいます。この転落事故で幸い一命を取り止めたものの、脊髄損傷という大きな怪我をして寝たきりの状態となり、米国での開教活動を継続していく夢が絶たれ、生きる希望を全く失ってしまいます。失意の中、約5か月後に帰国され、その後は懸命のリハビリにより、松葉づえを突いて歩行できるまでに回復されました。そして、明治35年「第四佛教中学福岡分教場」教頭として就任します。不自由な体をおして、糸島の自宅から学校のある警固まで片道2時間以上かけて人力車に乗り、通勤されたそうです。

この生活はその後35年間にも及んだといいます。

 

③水月哲英先生の扁額

「見善如不及」(善を見ては及ばざるがごとし)

初代校長の水月哲英先生の書です。職員室内の出入口に掲示されています。

「論語」季氏篇に見える言葉で、「善いものを見たならばそれに向かって努力する」という意味です。

書かれた時期は分かりませんが、若い頃から漢学に親しんでいた先生ならではの書です。


『旧校舎正門の柱』

この写真の門柱は、紫苑館側にある門柱です。変わりゆく時代の中で、校舎は、少しづつ建て替わってきました。その中でも昔を忍ばせるものとして残っています。


『制服』の変遷

※紫苑館3階のメモリアルホールに保管されています。

◎いちばん左側

明治40年頃。着物にえび茶色の袴でした。当時の女学校は、皆この色だったため、他の学校と区別できるよ
う、袴には二条のオリーブ色の線が入っています。

◎左側より2番目

大正10年~12年頃。紫紺の着物に紫紺の袴が制服として定められ、袴の紐に校章がつけられました。
履物は、下駄や靴、編み上げ式の靴を履いていた人などさまざまでした。

◎左側より3番目

昭和2年頃~15年頃。編み上げ式の紐のついたセーラー服にひだスカートが制服になりました。
この頃、ようやく現行に近い形になりますが、よく見るとセーラーの丈と袖のライン下が長めになっています。
(写真にはありませんが、昭和10年頃の2年間は、白いセーラーに水色のギンガムという時代もあったそうで
す。戦時中は編み上げ式のセーラーにもんぺ姿、終戦後はしばらくスーツの時もありました。)

◎写真右側3体

昭和23年頃。現在の中学校の制服になりました。高等学校は、昭和28年頃に現在のセーラー服になりまし
た。

制服も時代とともに活動しやすいように変わっていきました。最近はブレザーを導入されている学校も多いようで
すが、この伝統ある制服を長く残していただきたいと思いました。


【編集後記】

今回は、創設者である初代校長の水月哲英先生のことなどを取材させていだきました。大きな怪我をされ、不自由な体でありながらも、毎日休むことなく学校へ足を運ばれていた哲英先生。大変ご苦労されながら、女子教育に尽力された先生の思いがたくさん詰まったこの学園で学ぶことができる喜びを、生徒の皆さんにも感じてほしいと思いました。

これからも建学の精神、そして学園の伝統を末永く受け継いでいってほしいと切に願います。

<広報委員会>

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